第2話 エコーとナルキッソスの心理学

エコーは物理学ですが、ナルキッソスは心理学です。

おしゃべりな妖精「エコー」は、呪いによって普通に会話する力を奪われ、相手が発した言葉の末尾を繰り返すことしかできなくなりました。ナルキッソスという美青年に出会いましたが冷たく振られ、体はやつれて細くなり、最終的に実体が無く言葉の末尾を繰り返すだけの存在「エコー(こだま、やまびこ、反響)」となりました。

エコーを冷たく振ったナルキッソスは、河の神と美しいニンフ(森などに住む妖精)の子どもでした。森の中でも評判の美青年で、ナルキッソス自身も自分の美しさを強く意識し、それゆえに自己愛が肥大化し、他人に冷たい性格になりました。

エコー以外のニンフも人間の女も冷たくあしらっていました。何人もの女が言い寄ってきますが、ナルキッソスは相手にしません。

ある時、ナルキッソスに振られた少年は、ナルキッソスの家の前で自殺しました。そして死ぬ直前に処女神アルテミスに願いました。

「ナルキッソスに復讐してください」

アルテミスは承諾し、ナルキッソスに呪いをかけました。

ナルキッソスは、水を飲もうとして湖の前にしゃがみ水面に口を近づけました。

すると、湖の底の方から、誰かがこちらを向いていました。美しい青年でした。

彼はナルキッソスと同じ動きをしました。ナルキッソスが瞬きをすると彼も瞬きをし、ナルキッソスが手を振って呼びかけると彼もまた手を振って応えました。

ナルキッソスは、湖に映る青年に心を奪われました。しかしキスをしようとして水面に口をつけると、彼の像は揺らいで消えてしまいました。そしてナルキッソスは湖の水を飲むことができなくなりました。

もともと自己愛が強いナルキッソスでしたが、アルテミスの呪いによって、水面に映った自分に猛烈に恋をしてしまったのです。

もはや他人の声は全く届かなくなり、来る日も来る日も湖を眺めて暮らしました。水面をみつめ、水面に触れては像が揺らいで落胆する。これを狂ったように繰り返しました。

食べ物ものどを通らなくなり、日に日にやつれていきました。かつてエコーがそうであったように…

振り向いてもらえない哀しさ。悔しさ。ナルキッソスが今まで振ってきた、数え切れないほどの女たちが経験したのと同じくるしみを味わうこととなりました。

復讐の手段としては素晴らしいと言えるでしょう。裁きを下したのは、アルテミスの他に、復讐の女神ネメシスだったという伝承もあります。

ナルキッソスは、最後にはやせ細って餓死寸前となりました。それでもキスをしようとして水面に顔を近づけ、自分の死を悟ったのか、弱々しく「さようなら」とつぶやきました。ナルキッソスの衰弱した体は重力にしたがって水面の方へ倒れ、そのまま湖の底へ沈んでいきました。

エコーは「さようなら」と繰り返しました。

寂しげに言ったか、それとも「ざまあみろ」と思ったか。解釈は語り手によって分かれるでしょう。

ナルキッソスがいた場所には水仙の花が咲きました。英語ではナルシッサスです。「ナルシズム」「ナルシスト」の起源はナルキッソスの神話です。

↑ミケランジェロ・カラヴァッジョ 「ナルキッソス」 1597年頃
呪いで水面を眺め続けるナルキッソス
↑ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス「エコーとナルキッソス」1903年頃
ナルキッソス、エコー、よく見ると水仙の花が咲いている

ナルシズムという言葉を考えたのは、精神分析で有名なフロイトです。

ちなみに、ギリシャ神話のオイディプス王にちなんで「エディプス・コンプレックス」という概念を考えたのもフロイトです。19世紀のことで、人類の歴史上では意外と最近なのですが、ナルシズムは太古の昔から存在したことでしょう。そしてナルシズムが行き着く先も、昔と今でそれほど変わらないかもしれません。

第3話 ピュグマリオンの彫像

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